いのちみじかし、こいせよおとめ……

nununununu2007-09-23

9/21 ピッチさんのイベントも行きたかったのだけど、どうしてももう一度『一万年、後‥‥。』を観たくなり(観た人はこの気持ち分かってくれるはず)最終上映へと足を運んだ。入場制限まで出るほどの超満員。上映前に高橋洋さんと沖島さんのトーク。冒頭のシーンで、水が一万年振りに体を通過したことが、阿藤快演ずるおじさんに言葉を語らせたのでは、とは高橋さんのご指摘。この映画で水の存在はたしかに大きく、鉢植えに水を注ぐのは地球と水との邂逅→生物の誕生を連想させるし(一番最初のシーンは宇宙の絵)「想像すべき、誰にも認識されることのない場所」として湖が登場したりもする。沖島さんは風について言及。なるほど一万年前も今も吹いている風は同じといえる。しかし一万年後、その風はまだ吹いているだろうか。そして認識できる誰かがいるだろうか。水は存在するだろうか。それをいま想像してみることは無意味であろうか……。
上映後、沖島さんはこんな話もされていた。子どもの頃に夜中に森林で過ごした経験があり、その闇の中で吹き抜けていく風の如何に恐ろしかったことか、それはふつうの人間の神経では耐えられるものではない、と。そして、それは今のひとたちにも体験してほしいとも。近所の森林で一晩過ごせば、沖島さんを通り抜けていった風を感じることができるだろうし、その経験はもしかしたら『一万年、後‥‥。』で味わうことになる恐怖と似ているのかもしれない……。
この映画は劇中劇として室内のセットで撮られており、外側は闇であるともいえる(その闇は映画館のスクリーンの外側も連想させる)。そして、数少ない屋外のシーンでは常に林が映っていなかっただろうか。窓を開ければ、室内に突風が吹き込んでくる。外では風が吹き荒れている(そこには両親を食い殺した怪物がいるとされるが、姿は現さずシルエットなので、妄想による産物かもしれない)。おじさんは電波の乱れにより突然出現したわけだけど、それでは彼は沖島さんが森林の中で感情が乱れた時の記憶が形になったものなのだろうか……。妄想は逞しくなるばかりである。
おじさんが姿を消したのち、みかんを買いに出ていた妹は(無事)帰宅する。少年は台所で米を研ぎながら出迎える。二人が食べる為のものを用意するのは、生きていく意思があるからだろう。米を研ぐためには水が必要である。水は蛇口より現れて、ざるの中で米と接触したのちに、排水溝へと流れてゆく。おじさんは「母親が生きていた時間はほんのこれっぽちで、あんなに苦労をして、何の為に生きていたんだ」というように嘆くが、母親(の映像)が突然現れて「目の前にある心配なことを心配することが出来ることが幸せ」と説いたのちに消える。この母親の人生は蛇口から出て米をといで排水溝へと吸い込まれていく間の出来事であったと言えるかもしれないし、それに限らず人生とはそういうものなのかもしれない。そして「水」は排水溝から配水管を伝って、それからどこへゆくのだろうか……。それはあの湖に辿り着くかもしれないし、鉢植えに注がれるかもしれないし、そしてきっとまたおじさんに何かを語らすのだろう(一万年後に渡辺のおばさんがいるように)……。
この映画のサウンド監修を担当した宇波拓が在籍するホースのアルバムは、ボーリング場で靴をレンタルしたのちに、以下のような歌詞でエンディングを迎える。
「ピンを倒すのはボール、ボールで倒すのさ」。
ボールは暗闇へと姿を隠したのち、どこへ向かうのか。
管を通って光のもとへ出てきた何か(ボール/水)が役目を終えて(ピンを倒す/米を研ぐ)闇へと消えていく。それは決して無に帰したわけではなく、管を通って再び姿を現すことだろう……。(さらにいうと映画もそのようにして生を全うする。この映画は撮影シーンを導入部としている……)。
それと最後に。これは二日前に宇波くんから聞くまで考えたことなかったのだけど、ホースってあの馬のホースじゃないって知ってました? 管のホースだったんですね。水を撒くの使われる……。