”われわれ”と”かれら”

nununununu2006-07-08

森達也 森巣博『ご臨終メディア』読了。終止、マス・メディアの思考停止を嘆いている。
最初は善意のつもりが、硬直し麻痺してしまうと、悪意に反転していることに気付かなくなることが怖い、という森達也の意見は、たしかにその通りだと思った。
森巣博が以前読んだ小説の一節として、こういうのがあった。父親が実はアウシュビッツで「鬼」と呼ばれたSS親衛隊員だったと知った娘が、「どうしてあんな酷いことができたのか」と問いつめたところ、「まず”われわれ”と”かれら”を分けた。あとは、簡単だった」と父は答えた、という。
続いて、仲俣暁生のインタビュー集『〈ことば〉の仕事』を、興味のある順に読み始める。堀江敏幸の小説をまだ読んだことがないのだけど、『大谷能生フランス革命』の最終回のゲストということで、読んでみた。「決めることが苦手」という堀江氏の発言に対して仲俣氏は「『Aでもない、Bでもない』という状態を肯定することは(略)その両者の間をたえず移動しつづけるのだ、という意志の表明なのだと気付かされた」という。また、原稿が1行も進まなかったのに、タイトルを「郊外へ」に変更したら、筆が動き始め、「(つまり)大切なのは、動くことなんです。だから『郊外で』じゃなくて『郊外へ』。」とも発言していて、興味深い。まだ半分くらいしか読めていないが、この本は一貫して、動いていることの大切さを謳っているのではないか。それは、”われわれ”と”かれら”を分けることで、硬直し、思考停止になることとは、真逆のベクトルにあるだろう。というか、そのことの危険性に気付いている人たちから発せられたことばをまとめたものと言えるかもしれない。佐々木敦さんもまさにそういう人だろう(佐々木さんも収録されているのです)。なお、『nu』VOL.2に仲俣さんのブログを掲載させていただきました。
http://www.uplink.co.jp/factory/log/001302.php
http://d.hatena.ne.jp/solar/
「MAGIC MUSIC」が頭から離れません……。