ゴジラ vs アキラ

nununununu2005-01-05

ゴジラ』鑑賞。
人知れず海底に生息していたゴジラが、水爆実験で被爆。抗議として地上で街を破壊しはじめるが、それに対して人間たちはどう対処するのか…。
この映画には科学者がふたり登場する。ひとりは、ゴジラを退治することに否定的で、なぜなら被爆しても生き延びているゴジラのような生物は科学者にとってまたとない研究材料だから。もうひとりは、ゴジラを退治できるだけの兵器を発明したものの、それがいつか誰かに悪用されるおそれがあるので葛藤するのだが、結局は資料を破棄し、発明を覚えてしまっている自分が死を選ぶことによって解決とする。ゴジラは兵器によって骨と化する…。
いずれの科学者も、ゴジラが被害者という視点ではないのですね。人間による水爆実験やミサイル攻撃がまずあり、ゴジラはその反動として街を破壊するのだから、人間は力を加えるのではなく、力を抜かなくてはならないと思うのだけど。研究という選択肢は、一見ゴジラに対して力を加えていないようだけど、科学者の研究欲が発案のもとである限り、ゴジラはそれに反発するだろう。必要なのは、どう共存するか、であって、殺すor研究する、というベクトルの傾きは、一切有効でないだろう。ではどうするべきだったか。天災とみなして、逃げるのがベストなんじゃないかと思うんですけど、どうなんでしょう。
先日観た『アキラ』は、人智を超えた力をもつ人間を育て、それを利用しようとした人間は愚かであった、という、狂信的に科学の進歩を肯定する向きに反省を促す、みたいな映画でしたが、『ゴジラ』の科学者には、そういう愚かさというか、人間のことしか考えない自分勝手さを、感じて気になった、というわけなんですね。それは、
教育について:学校がつねに目標とすべきは、若い人たちが調和のとれた人格の持ち主としてそこを出ることです。専門家としてではなく。
という、アインシュタインの言葉を、今日の新聞で読んだのと、日本では、科学のスペシャリストを育てるためにふるいにかけるような教育がなされているが、大勢が科学に関心をもてるような教育に変えるべき、という、村上陽一郎の本を読んだ影響なんだろうな、と書いていて気付きました。あ〜やけに書いてしまった…。

『nu』関連情報をひとつ。なんと大友良英さんがはてなを始めたようです!
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